クルーズ船での太極拳はじめての日 2

出航日の当日その日は中々緊張して寝付けなかった。

船では水先案内人のトークイベントやカルチャースクール、乗船しているお客さんが自らつくりあげる自主企画がある。
それら船内のスケジュールは毎日発行している船内新聞で一覧が見れるが、一番初めの行事が朝6時から始まる太極拳になっている。
太極拳は晴れている日は見晴しがいいプールデッキで行うが、屋根がないので雨の日は室内のスターライトと呼ばれる普段トークショーなどの企画として使われる場所で行う。

その時私は普段人前で話すのさえ困難なくらい人見知りで緊張してしまう性質だったから、大勢の前で話すなんて考えられないことだった。しかしそこは仕事!と意気込んで前日何を話そうか自己紹介はどんな感じで行こうかなあと考えに考えていたが…早朝音楽プレヤーとスピーカーを持って準備しにいった光景の先には、なっなんと上のデッキまで太極拳をしようと来てくれたお客さんが控えめに見て100人いた。

当然のことながら全員が私を見ている。一瞬にして考えていたことが真っ白。朝日はなんて美しいんだろう。空も海もきれいな色だなあと気を逸らしてみても当然ながらダメだった。高鳴る心臓はこちらの都合お構いなく私を急かした。呼吸だ、とりあえず深呼吸するのだ私!と3.4回の深呼吸の後デッキを見渡す。

波の振動で足の震えが誤魔化せるのがいいなんて思ってみても私が始めないと太極拳は始まらない。覚悟を決めて音楽を流しついに船の第一企画が始まった。

結果、納得の行く自己紹介も、考えていた小ネタも、挟もうと思っていたギャグも、殆ど言えなかった。ピンマイクをつけているので声量は心配なかったが、緊張で舌が回らずどもってしまった。しかし何度も乗船経験がある先輩のMさんがすごくよかったよと励ましもあり、なんとか気持ちを切り換えてその後、通常の鍼灸の業務ができた。 

後にお客さんに聞いた話だが人が多すぎて私の姿は後ろの人はほとんど見れなかったらしい。なんだそんなに緊張しなくてもよかったなあと思ったが、最後85日の勤務を終えて下船する最後まで人前での太極拳は慣れることはなかった。

この場所で告白することではないが私がきちんと言えたことといえば「それでは時間になりましたので太極拳を始めます」と「時間になりましたので太極拳を終わります」ぐらいである。